書写・書道・教育言いたい放題 2007
 
-今年は“ありがたや ありがたや”なるか?-



☆やぶにらみ桂風庵☆

 「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」と光太郎は言った。
 「前に道はあった、けれど後ろに道ができない」・・・ような書写・書道?

 書写も書道も岐路に立っている。
 実用としても、芸術としても「書く」という行為の現代的な意義、価値を問い直さなくては、なし崩し的に衰退してゆく。
 手で書くことは、付加価値を付けなくては、機械での印字に驅逐される。

 書の伝統と文化という道。この道が行き止まりにならないようにするには後継者の育成。
 はて、誰が育てる?  ・・・と思うこの頃です。


         今年も辛口に・・・書写・書道を斬る!!     なんちゃって!


【その10】王朝美の精華・石山切 -かなと料紙の競演- 
【その9】大内基康コレクション「書に見る歴史の主人公」
【その8】書の鑑賞 -さまざまな鑑賞の方法-
【その7】知っているようで知らない、古筆のもとの姿 
【その6】またまた、どっちがホント?
【その5】習字教育と漢字教育
【その4】これは芸術? それともデザイン?
【その2】「見て楽しめる書展」
【その2】書道展って何のためにあるの? 
【その1】どっちが正解? ムムム・・・ 無無? 




★王朝美の精華・石山切 -かなと料紙の競演- ★  2007.11.25

 去年の秋、名古屋で全国書道学会があった。その時の特別講演として、徳川美術館の四辻秀紀さんが『西本願寺本三十六人集』の料紙について講話をされた。なかなかステキな話しぶりであり、以来楽しみにしていた展覧会である。分割された「伊勢集」と「貫之集下」がどれだけ集うのかと楽しみにしていたが、予想以上の数であった。前期、後期の入れ替えはほぼ全面交替。約九十点の石山切れの他に三十六歌仙にゆかりのある古筆を含め、総勢二百点余り。見応えのある展示であった。 

 会期初日には、料紙作家福田行雄さん(田中親美翁孫)による特別講演があり、田中親美翁の古筆復元の思い出話、料紙制作の周辺話など福田さんならではの秘話も聞けた。自称田中親美翁オタクの私ゆえ、大方の内容は数々の資料で把握していたが、やはりその場に居合わせた人しかしらないことがある。朝早くから馳せ参じた甲斐があったというもの。

 近年は図録の写真がとても良いので、ともすると見たような錯覚を起こすようだ。「図録を買ってきて」とか「写真で見たから」と会場に行かない人が多い。しかし、展覧会はライブである。この雰囲気に嵌ると何が何でも行きたくなる。(魔物が私を呼ぶんですぅ) 「西本願寺本三十六人集」「石山切」に関してはかなりの資料にあたっていると自負していたが、今回の展示でさらにいくつかの疑問が解決した。そしてますます田中親美翁が好きになった。

 とても感動的な展覧会であったが、図録の和歌番号の付し方に誤りがあった。それで、ちょいと御注進申し上げたのだが無視されてしまった。徳川美術館さん、公開されたものに誤りがあれば訂正・謝罪は要るでしょ。只でもらったンじゃんないんですから(怒)

 そういえば、何年か前、某美術館でも問い合わせを無視されたっけ・・・ちゃんと手順を踏んだのにもかかわらずですよ!思い出したら、またまた(怒&笑)   

余談ですが、あつた蓬莱軒名物「ひつまぶし」美味しかったです。「名古屋コーチン」「すだちごはん」もなかなか・・・今回の名古屋食べ歩きはGOODでした。 



★大内基康コレクション「書に見る歴史の主人公」★    2007.10.15
「筆の里工房」という広島県の熊野町にある町立の美術館で開催されました、天皇家の古筆を中心とした展覧会でした。展覧会の切り口が良かったのでしょう。書の展覧会にしては(失礼!)盛況でした。団体バスも駐車していましたが、どのような方が来館されたのでしょうかね。

 これは個人のコレクションです。コレクターの大内さんは古筆の鑑賞がとてもお好きな方で、あちらこちらの美術館にご夫婦で出かけられるそうです。

会期中に五島美術館の名児耶先生の「古筆って何?~鑑賞の壺」というテーマでの講演会が開催されました。名児耶先生のお話は、とてもわかりやすかったのですが、私のような長年書道界にいる者でも「ふむふむ、なるほど」「そういうことなのね」と改めて考えたり、反省させられたりすることしきり。お話し上手ってかくあるなん。知ってるつもりでの驕りは禁物。

古筆の展覧会ってかな書道を“書く”方々はあまりご覧にならないのだそうですよ。某大物書家先生曰く「うちの会員はあまり(古筆を)見に行かんからな」と。(それって・・・???)

書道は表現・鑑賞・研究いずれもコラボしていないということをつくづくと感じるこの頃。「書く楽しみ」「見る楽しみ」「知る楽しみ」これを組み合わせると楽しみは∞!
  

 



★書の鑑賞 -さまざまな鑑賞の方法- ★  2007.9.15

 ー大内コレクションの展覧会(於:筆の里工房)に先だって、作品の一部を披露してもらいましたー

 作品点数は鎌倉時代から南北朝時代の軸5点、冊子1点(伝本阿弥光悦「百人一首」)

 解説は所蔵者の大内さん、学芸員の松本さん、そして書道文化史研究が趣味の(?)塩出の3人。それぞれの視点から話すので聞き応え有り。
 各古筆の筆写の略歴、エピソード、書かれている和歌の読みや意味の解説、料紙の状態、元の形態、表具、極札・・・などなど、さまざまな角度からのアプローチに参加者は大滿足!! 

 こんなに豊かで贅澤な鑑賞会は私も前代未聞。作品展数は多ければよいなんて発想は貧しいと思いました。じっくり鑑賞することは大事ですよ。
 書道鑑賞はこうでなくっちゃ!!! 古筆は日展に入選するためのテキストじゃないんですよ。臨書の為にも役には立つでしょうが・・・

平安時代の古筆切だけ見ていては、その古筆切の価値さえも見失います。

 視野を拡げて、書道の文化をもっと楽しみましょう!!   

 



★知っているようで知らない、古筆のもとの姿 ★  2007.5.25

 大学の講義でのこと。対象は、3回生の専門科目。
 巻子や冊子の成立からそれが切断された経緯などの話。  
 「古今和歌集は1100首もありますね。たくさんの紙に書写しなくてはならなりません。順番に書写しておいても、なにかの弾みで、その紙がばらばらになり、順番がわからなくなる事もあるでしょう。それを防止するには?」

という話から始め、
「紙を継ぐ→継いで長くなった紙は巻くことで收納の便を図る。(これを巻子という)→巻子は途中を見るためにも最初から拡げなくてはならないので不便→ノートのような形態(これを冊子という)にすると、必要な箇所が開けて便利。
かくして、歌集は巻子より、冊子が多くなった。」

  ・・・というような話をしたところ、学生は「な~るほど!!」と納得。
 かんがえてみれば当たり前のことではあるが、文字の美にのみ関心がゆくため、そんなことに疑問を持っていなかったようである。    いつになく身を乗り出して聴き入る学生達・・・

 次に、かな書道ご用達の日本名筆選の「高野切」「継色紙」「関戸本古今集」を参考図書として、それら古筆切のもとの形態を考えさせる。ヒントが出来たので、学生はあれこれ考えている。

 「ではこの写真の古筆の料紙の裏はどうなってると思う?字は書いてるのかな?」
 「これらはどうやって所蔵されているのでしょうか?1枚の端切れのまま箱か何かに入れてあるのかな?」
「掛け軸になっているのなら裏にかかれたものは無駄にされたわけ?もったいないよね?」

・・・学生達は再び默りこくってしまいました。

その後の彼女たちの眼は爛々と輝いておりました。90分がとても短く感じられた授業でした。



★またまた、どっちがホント? ★ 2007.5

古筆「三色紙」でおなじみの「継色紙」。ホンモノは長野県諏訪市のサンリツ美術館にあります(図1)
余白の部分は別の色の紙を継いで仕立ててありますが、もとは細長い色紙の半分に和歌が書写されていました。従って余白は同色。



 田中親美先生は和歌を右にして模写され(図2)、桑田笹舟先生は和歌が左にあるのが正しいのではないかと推測されました。(図3)
 さて、余白はどちらにあったのでしょう。どちらの模写が正しかったでしょうか? 


              ↑図2
     
 
              ↑図3

 



★習字教育と漢字教育 ★ 2007.5

 先の一斉学力テストの結果では、小学生の漢字能力が劣っているという結果が出ました。
   「あ~あ、これで、また○○式学習塾が流行るんだろうな~」
   「習字教室に行かせても、漢字の力は付かない、ってね。」

 ホントに習字教室は漢字を覚える力の足しにならないのでしょうかね?

長年の経験では、書写能力が向上すると、漢字を覚える力も向上しているように見えるのですが・・・

 書写教育に関わる先生がた、書塾の先生方にお聞きしてみたいものです。




★どっちがホントの姿? ★ 2007.5

 佐竹本三十六歌仙はもともとは二本の巻きものでした。大正年間に切断され、各歌仙はそれぞれが掛け軸となっています。
 その中の一枚「伊勢」は下の二枚のうちどちらが切断以前の姿でしょう。
 


    
 



   



★これは芸術? それともデザイン? ★ 2007.4

 4月から新しい学校で非常勤のお仕事。
 実技中心の学校での講義はけっこう大変です。
 なぜなら、学生さんたちはお話しを聞いて自分の意見を論に組み立てる、あるいは文章にまとめるということが苦手。
 どうやら、手から学ぶのと活字から学ぶのは腦味噌の働く箇所が違うみたいで・・・
 つまり、早い話が、講義の苦手な学生さんが多いということで・・・

 おしゃべりをさせない、居眠りをさせないような講義の工夫が要るわけですわ。

 たとえば、みんなが居眠りをはじめそうになったときには
何て書いてあるのでしょう?↓
           
というような資料を配ります。すると・・・

目が覚めるのですよね。

向かって左は室町時代の雪村周継の作品の模写。右は一休宗純の作品です。  
これを見せて、
「これは書ですか?芸術ですか?」「作者はどのような書写意識をもってこれを書いたのでしょう?」
と問いかけます。    皆さん、目がテン・・・

 眠気が吹っ飛んだところで、講義を続けます。




★「見て楽しめる書展」★ 2007.3

 桂風庵主はこの十数年来、一応かな作家として作品を発表してきたのですが、今回はジャンルを越えてさまざまな書体で書きました。いろいろな書体で書いたほうが、見る人が楽しんでくださるだろうと思ったからです。

 書道展に行った多くの人が、「何が書いてあるか分からない。」「同じような作品ばかり」と言います。かといって、「何が書いてあるかはわからないけど、凄い!!素晴らしい・・」というような作品もないですよね。

書道展って、意外とコンセプトがはっきりしていないようです。そこで、桂風庵主は考えました。「 わざわざ足を運んでくださるのだから、もっと会場で楽しんでもらわなくては!!」と。
 そして、すべての作品を、誰もが知っている「いろは歌」で表現。
「これもイロハ、あれもイロハ、どれをとってもイロハニホヘト」とです。

 これで、何が書いてあるのかわからない、というギャラリーの不満は解消です。
 案の定、どれもが「いろはにほへと」と書いてあることがわかった方は、いくつかの文字を手掛かりにして、あとは推理力、パズルを解く感覚で次々と文字を判読されていました。これは、各作品の前での足止め效果大 q(^^)p

 読めたという手応えがこれほど皆さんを喜ばせるとは思いもよりませんでした。手前味噌ですが、こんな活性化した書道展は前代未聞(^0^)/

 「お遊び的な書展」という意見もいただきましたが、桂風庵主、この2ヶ月本当に真剣に古典を紐解きました。私的には、「みなさまに楽しんでいただくため」に、とても苦しい思いをいたしたのでございます。優雅な白鳥の足は水面下のみえないところで必死に動いております。私もちょっと白鳥になった気持ちがいたしました。
                



★ 書道展って何のためにあるの? ★ 2007.3

 決してお遊びではなく、それでいて鑑賞者に楽しんでもらえる展覧会をしてみたかった。

 会場が舞台。そこに主役の作品があって、脇役、子役いろいろな役割の作品もあって、それぞれが名演技をしている、そして、私の舞台を見た観客はさまざまな反応をする。
・・・そんな場を作りたかった。

 おこがましいかもしれないけれど、そうでなきゃ、芸術としての書表現ではないと思う。

本来、創作というものはそうあるべきではないのであろうか。書が芸術であるならば自己を表出すべきである。

最近の書家は一体何を目的として創作活動をしているのか、わたしには、よく分からない。少なくとも、楽しさや情熱は作品から感じられない。みんな苦しそうである。そんな作品は見てもつまらない。 

         ↓ 元気が出る作品、  楽しい作品→
          



                   前回↓の宿題「どっちが正解?」:左が正解です



★ どっちが正解? ムムム・・・ 無無? ★ 2007.1

とある出版社の書道本。『墨蹟の鑑賞基礎知識』の裏表紙にあった「無」。

見覚えがあるけど、なんかヘン・・・

さて、どちらがホンモノ??
あなたの審美眼をおためしあれ!!(正解は次回に)

 
          

  ヒント:これは宗峰妙超の国宝の書。