親には図形にしか見えない形を羅列することが、子どもの書字行動のはじまりである。紙にえんぴつで丸い形をせっせと書きつけて「はい、お手紙」と言って親に渡す。
その中のいくつかが「つ」や「し」あるいは「の」の形をしていたとき、親は「これは“つ”、これが“の”だね!じょうずに字が書けるようになったねえ〜」と大喜び。まだ意図的に字を書いたのではないのであるが、親の笑顔が見たいので、こどもは一生懸命いろいろな形を字として書いてみせる。そのうち発音と形の対応を理解するのである。そしてことばや文を書くことを覚えるのである。
これが、本来の文字を書くことの流れであろう。そこには対話があり、書くことの試行錯誤をする時間のゆとりもある。そして、一人一人の発達に見合った書字の展開がある。「この字は書けるかな?」「これはまだ難しいみたいね」「もうこのくらいの字は書けるようになったかな?」「まあ、こんなに書けるようになったのね」と、子どもの成長をあたたかく見守ってやりたいのであるが・・・
いつからであろうか、「入学するまでにひらがなが書けていなくては学校に入ってから授業について行けないのではないのか」「○○ちゃんはもう漢字も片仮名も書けているのにうちの子ったら・・・」と、幼児期に字が書けないことが悪いことのようになっている。
ハサミもクレヨンも満足に使えない子どもに無理矢理字を書かせても意味はない。苦痛なだけである。
ことばも充分でない子や文字もすらすら読めない子どもには文字を書くことのおもしろさがわからない。
それなのにえんぴつを持たせ、字を書かせようとする。
学校に入ったとき親が楽をするため? 字が書けない状態で入学してきた子には、先生が必死に教えればいい。子どもが苦痛に感じない文字の書かせ方を考えればいいので、先生に楽をさせるためにやりたくももない文字のおけいこをさせる必要はないのです。
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